2016年1月号掲載「特別寄稿」日韓トンネル推進全国会議事務局長 大塚 正尚

 

2015年11月2日、3年半ぶりに安倍首相と朴クネ大統領との日韓首脳会談が開催された。両首脳が笑顔で握手するシーンは、多くの人達に安堵の一時を与えただろう。

「近くて遠い国」と言われながら、さまざまな歴史の狭間で翻弄され続けている日韓関係。そのような中2015年は、日韓国交回復50周年の節目の年であり、朝鮮通信使を開いた徳川家康公没後400年にあたる年でもあった。

通信使は江戸期の約200年の間に、計12回にわたり朝鮮半島と日本の間を往来する。3回までは秀吉による朝鮮出兵により拉致された朝鮮人を本国に戻すための「回答刷還使」と呼ばれ、4回目からは「朝鮮通信使」として「誠を交わす」通信使の役割を果たす。

この通信使が往来の中で残した貴重な文物や史跡を記憶遺産登録しようとの活動が日韓両国で巻き起こっている。

壮大な夢の始まり

特急「あじあ」。日本の資本による南満州鉄道において、昭和9年(1934年)から昭和18年(1943年)まで大連駅 – 哈爾濱(ハルビン)駅間の約950kmを運行していた、当時の超特急列車。最高速度130km/h、全車両に冷房装置を完備し、国産でありながら、当時トップクラスのスピードと豪華さを誇っていた。

戦前日本は、島国と大陸とを結ぶ通称「弾丸列車構想」を立ち上げる。昭和15年(1940年)当時の鉄道省は、東京~下関間を時速二百キロで走り、下関から釜山まで連絡船に車両を乗せ、釜山から朝鮮半島を抜け、満州国の首都新京(現長春)から北京に至る壮大な計画を立てる。「広軌幹線鉄道計画」として帝国議会も了承し、用地買収も成され一部工事にも着手したが、残念ながら戦争突入により昭和18年(1943年)、構想はあえなく中断する。

この時の将来構想としては、対馬海峡に海底トンネルを掘削する計画が練られ、実際に海底調査も成されている。

そして、戦後には大手ゼネコンの大林組が「ユーラシアドライブウェイ構想」を発表する。その構想の中では、壱岐までは橋梁で結び、対馬から朝鮮半島までは海底トンネルを通すという計画であった。

国際ハイウェイ構想と西堀栄三郎

続いて1981年、韓国ソウルにおいて開催されたICUS(科学の統一に関する国際会議)において、本格的な提案がなされる。

この科学者会議は、ノーベル賞学者をはじめ世界中から著名な科学者770名が参加、科学における普遍的価値の位置づけをテーマとするものであった。

会議を主宰した、国際文化財団総裁の文鮮明総裁は、「国際ハイウェイ建設」提唱のスピーチの中で、以下のような提案をする。

「私は一つの提案をしたいと思います。それは中国から韓国を通り、日本に至る「アジアハイウェイ」を建設し、ゆくゆくは全世界に通じる「自由圏大ハイウェイ」を建設することです。これは中国大陸から韓半島を縦断し、トンネルあるいは鉄橋で日本列島に連結して、日本を縦断する一大国際ハイウェイで、ここでは自由が保障されるのです。もしこれが建設されるなら、アジア諸国は、国際ハイウェイで連結され一体化することができます。そうなれば経済や文化の交流が頻繁となり、文字通りアジア共同体が形成されるのです。人類一家族という理想を実現する方向で、東洋と西洋の諸国を連結するのが国際ハイウェイの構想です。」

西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう)登山家、無機化学者、理学博士。第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長。1983年(昭和58年)「国際ハイウェイプロジェクト・日韓トンネル研究会」の設立に参画。1989年(平成元年)亡くなられるまで顧問を務めた。

この夢のような壮大な構想に反応した一人の日本人がいた。西堀栄三郎である。

第一次南極越冬隊長として有名でNHKの「プロジェクトX」にも取り上げられた。東芝の技術本部長も務めたエンジニアであり、QC(品質管理)運動の普及にも活躍した。

西堀は次のように構想を聞いた心境を語った。

「おそらく世界中の方々がみんな『無茶なことを言う』と考えられたことでしょう。私は夢を持っていましたので、一人の人間として爆発したのです。夢は実現できるものだと思うんです。(性格や立場の)違う人間が寄り合って協力する時に、本当の力が出てきます。それを私は『異質の協力』と言っています。日韓トンネルは、日本と韓国とにまたがる国際プロジェクトです。韓国人は日本人と非常に違っています。その違いは、互いに向かい合っている時には反発を生むだけですが、より大きなグローバルな目標がある時には、寄り合って大きな力を発揮する『異質の協力』になるのです。」

そして、西堀からある縁を通じて、次なる人物へと夢のバトンタッチがなされる。